長谷川雅紀さんの若い頃は、ホストや劇団員を経験し、芸人になってからも30年以上アルバイトで生活を支えていました。
華やかなM-1王者の姿からは想像しにくいものの、牛丼店の深夜勤務や交通警備などを続けながら、50歳でつかんだ大逆転だったのです。
長谷川雅紀の若い頃は何をしていた?
長谷川雅紀さんは、高校卒業後に専門学校へ進んだものの、半年ほどで中退し、フリーターとして働き始めました。
その後はホスト、カプセルホテルのアルバイト、劇団員、芸人、テレビのリポーターなど、いくつもの仕事を経験しています。
長谷川さんは1971年7月30日生まれで、北海道札幌市白石区の出身です。
北海道北広島西高等学校を卒業した後、北海道造形デザイン専門学校へ進学しました。
幼い頃から漫画が好きで、漫画家を目指していた時期があったため、絵やデザインを学べる学校を選んだのでしょう。
ところが、専門学校には半年ほどしか通わず、中退しています。
そこから長谷川さんの長いフリーター生活が始まりました。
経歴を時系列で整理すると、若い頃からM-1優勝までのおおまかな流れは次のようになります。
- 高校卒業後、北海道造形デザイン専門学校へ進学
- 入学から半年ほどで専門学校を中退
- ホストクラブでホストとして勤務
- カプセルホテルなどでアルバイト
- 同僚との縁で「劇団しゃどうず」に入団
- 1994年、23歳で札幌吉本に入り芸人へ転身
- 久保田昌樹さんと「まさまさきのり」を結成
- テレビ番組のリポーターとして約1年間活動
- 2002年に「マッサジル」として上京
- 牛丼チェーン店の深夜勤務などで生活を維持
- 2012年、渡辺隆さんと「錦鯉」を結成
- 2021年、50歳でM-1グランプリ優勝
こうして並べると、一本道で成功したのではなく、何度も仕事や活動の形を変えながら前へ進んできたことが分かりますよね。
若い頃の長谷川さんは、将来の道が最初から決まっていたというより、働く中で出会った人や出来事をきっかけに、少しずつお笑いへ近づいていった人物だったのです。
専門学校を中退した後はホストとして働いていた
長谷川雅紀さんの意外な仕事歴として、よく注目されるのがホストクラブでの勤務経験です。
専門学校を中退した後、長谷川さんはホストとして働いていました。
現在の長谷川さんといえば、白いスーツに黒いシャツ、白いネクタイという衣装がおなじみです。
明るい笑顔と大きな声で親しまれていますが、若い頃に接客業の現場を経験していたと知ると、人前に立つことへの抵抗が少なかった理由も少し見えてくる気がしますね。
ただし、ホストとして大成功していたという資料はありません。
あくまでフリーター生活の中で経験した仕事の一つであり、その後はカプセルホテルなどでもアルバイトをしていました。
このカプセルホテルでの出会いが、長谷川さんの人生を大きく動かします。
同僚の一人が劇団員だったことをきっかけに、長谷川さんは「劇団しゃどうず」へ入団しました。
つまり、若い頃の長谷川さんが芸能の世界へ足を踏み入れた直接の入口は、お笑い養成所ではなく、アルバイト先で知り合った劇団員との縁だったのです。
人生は不思議なものですよね。
生活費を得るために始めた仕事が、後の進路につながる出会いを運んでくることもあります。
筆者としては、この部分に長谷川さんの歩みを象徴するものを感じます。
長谷川さんは、綿密な人生設計に沿って進んだというより、その時々の縁を受け入れ、目の前に現れた道へ一歩踏み出してきました。
その柔らかな身のこなしが、後に渡辺隆さんからコンビ結成を持ちかけられた際、素直に応じられたことにもつながっているのではないでしょうか。
劇団員から23歳で芸人へ転身した理由は?
長谷川雅紀さんが芸人へ転身したのは、1994年、23歳の時です。
劇団で芝居を続けるうち、観客を笑わせる場面に強い面白さを感じるようになったことが、進路を変えるきっかけになりました。
さらに、当時テレビで見た海砂利水魚のコントにも大きな衝撃を受けたとされています。
海砂利水魚は、後のくりぃむしちゅーです。
上田晋也さんと有田哲平さんによるコントを見て、「自分もお笑いをやりたい」という気持ちが強まったのでしょう。
ちょうど1994年には札幌吉本が設立されました。
長谷川さんはこの機会に札幌吉本へ入り、本格的に芸人として歩み始めます。
同期にはタカアンドトシがおり、長谷川さんは二人から「ハセ」と呼ばれる間柄になりました。
高校時代からの友人だった久保田昌樹さんとは、「まさまさきのり」というコンビを結成しています。
しかし、すぐに全国的な人気芸人になれたわけではありません。
コンビの解散や再結成を経験しながら、芸人としての活動とアルバイトを長く並行していくことになります。
若い頃の長谷川さんを語る時、「苦労人」という言葉だけでまとめてしまうと、大切な部分を取りこぼしてしまうかもしれません。
確かに経済的には厳しい日々でしたが、劇団で芝居を学び、ロケや生中継を経験し、舞台で何度も観客の反応を確かめてきました。
その一つひとつが、後の漫才に必要な土台になっています。
劇団時代には体の動かし方や間の取り方を学び、リポーター時代には初対面の人や予測できない出来事への対応力を磨いたと考えられます。
現在の長谷川さんの魅力である、大きな動き、豊かな表情、少しずれた受け答えの面白さは、長年の現場経験と無関係ではないでしょう。
長谷川雅紀は若い頃にどんなバイトをしていた?
長谷川雅紀さんは16歳頃からアルバイトを始め、芸人として売れるまで30年以上にわたって、さまざまな仕事を経験してきました。
確認できる主な仕事には、次のようなものがあります。
- ホストクラブのホスト
- カプセルホテルのスタッフ
- 牛丼チェーン店の深夜勤務
- 交通警備員
- 劇団員
- テレビ番組のリポーター
なかでも長く続けていたのが、牛丼チェーン店のアルバイトです。
2011年の時点で、長谷川さんは週5日の深夜勤務を約10年間続けていました。
週5日で夜通し働きながら、ライブへ出演し、ネタを考え、舞台に立っていたことになります。
生活リズムも体力も厳しかったはずです。
それでも芸人を辞めず、働きながら舞台へ向かっていたところに、長谷川さんの粘り強さが表れています。
2023年2月に掲載された錦鯉の対談では、長谷川さん自身が、少し前までアルバイトで生計を立てており、芸人としての仕事は月に数回のライブ程度だったと振り返っています。
当時の芸人としての年収は、本人の記憶では30万円ほどだったそうです。
年間30万円では、芸人の収入だけで家賃や生活費をまかなうことは難しいですよね。
アルバイトは夢を諦めた証しではなく、夢を続けるための生命線でした。
漫才のつかみで長谷川さんが「バイトを始めて30年だよ」と言った際、楽屋で聞いていた年下の後輩が、自分が生まれる前から働いていたことに驚き、同情して泣いてしまったという話もあります。
笑い話として語られていますが、実際には非常に長い年月です。
16歳から30年以上となれば、学生時代から40代後半まで、人生の大部分をアルバイトとともに過ごしてきた計算になります。
華やかな成功談よりも、その前に続いていた何千回もの出勤のほうが、長谷川さんという人物を深く物語っているのかもしれません。
交通警備員のバイトでは大ピンチも経験
長谷川雅紀さんは、工事中の道路で車を誘導する交通警備員のアルバイトも経験しています。
2024年6月11日放送の日本テレビ系『踊る!さんま御殿!!』では、交通警備の現場で起きた忘れられない出来事を明かしました。
担当していたのは、道路の片側を規制し、車を交互に通す仕事です。
警備員は2人1組となり、笛と警棒を使って車の流れを安全に誘導します。
ところが勤務中、長谷川さんは交代要員がいないことに気づきました。
交通量が多く、簡単には持ち場を離れられない状況で、急にトイレへ行きたくなってしまったそうです。
車の流れが一度止まった隙を見つけ、長谷川さんは急いでその場を離れました。
大慌てで用を済ませたものの、首から下げていた笛が胸元から落ち、思わぬ位置にぶら下がってしまいます。
両手には仕事で使う道具を持っていたため、すぐに対処できませんでした。
そのまま急いで持ち場へ戻り、笛を吹いたところ、衛生面で困った事態になっていたことに気づいたと振り返っています。
番組では共演者から悲鳴が上がり、相方の渡辺隆さんが深く頭を下げる展開になりました。
少々強烈なエピソードですが、交通警備の仕事が、車や歩行者の安全を預かる緊張感の高い仕事であることも伝わってきます。
自由に休憩できない現場で、予想外の出来事に一人で対応しなければならなかったのです。
長谷川さんのアルバイト話は、失敗談として笑いに変えられることが多いですよね。
けれど、その背景には、立ち仕事や深夜勤務、屋外での勤務など、決して楽ではない労働を長年続けてきた現実があります。
私は、そこを忘れずに受け止めたいと感じました。
芸人の仕事ではテレビリポーターも務めていた
若い頃の長谷川雅紀さんは、アルバイトだけでなく、北海道のテレビ番組でリポーターを務めた経験もあります。
最初のコンビ「まさまさきのり」が解散した後、2001年10月から2002年12月まで、北海道テレビの『夕方Don!Don!』金曜特大号に出演しました。
担当したのは、生中継やロケを行うコーナーです。
当初は「週末はいただき!ハセガワフライデー」、後に「長谷川雅紀のフライデー珍道中」という名称で、約1年間リポーターを務めました。
現在の長谷川さんの親しみやすさを考えると、街へ出て人と触れ合うリポーター役はよく似合いそうですよね。
ただし、テレビの仕事を得たからといって、安定した芸能生活が始まったわけではありませんでした。
2002年には久保田昌樹さんとコンビを再結成し、「マッサジル」へ改名して上京します。
長谷川さんは30歳頃でした。
札幌で一定のテレビ経験がありながら、それを手放すように東京へ出たのですから、お笑いへの思いは強かったのでしょう。
上京後はフリーで活動した時期を経て、2005年に現在の所属先であるソニー・ミュージックアーティスツ系の事務所へ所属しました。
しかし、マッサジルは2011年に再び解散します。
長谷川さんはピン芸人「のりのりまさのり」として活動した後、2012年4月1日に渡辺隆さんと錦鯉を結成しました。
この時、長谷川さんは40歳でした。
前のコンビが終わり、本人も芸人生活の限界を感じていた頃だったといいます。
そこへ7歳年下の渡辺さんから声をかけられ、長谷川さんは誘いを受けました。
若い頃からいくつもの職場を経験し、コンビの解散も乗り越えてきた長谷川さんにとって、40歳での再出発は、それまでの経験を全部持ち込んだ新しい挑戦だったのですね。
なぜ長谷川雅紀はバイト生活でも芸人を辞めなかった?
長谷川雅紀さんは、長く売れない時代が続いた理由について、芸人でいる楽しさに甘えていた時期もあったと率直に語っています。
同期や後輩に追い越され、辞めようと思ったこともあった一方で、一般社会で通用しないのではないかと感じ、辞める勇気も持てなかったそうです。
これは、単純な「夢を諦めなかった美談」とは少し違います。
強い信念だけで一直線に走ったのではなく、迷い、諦めかけ、ほかの生き方にも自信を持てないまま、それでも舞台に立ち続けていました。
その人間らしい正直さが、長谷川さんの魅力ではないでしょうか。
40歳で錦鯉を結成してからも、成功はすぐには訪れません。
2016年にM-1グランプリで初めて準決勝へ進出したものの、2017年と2018年は準々決勝で敗退しました。
2019年に再び準決勝へ進み、2020年、ついに決勝へ初進出します。
結果は10組中4位でしたが、この決勝進出をきっかけにテレビ出演が増えました。
それでも、当時は長谷川さんも渡辺さんもアルバイト先に籍を残していたとされています。
テレビに出始めても、仕事がいつまで続くか分からない。
長い下積みを経験した二人だからこそ、簡単には生活の土台を手放せなかったのでしょう。
そして2021年12月19日、錦鯉はM-1グランプリで優勝しました。
ファーストラウンドでは655点を獲得して2位タイとなり、最終決戦では審査員から5票を得ています。
長谷川さんは50歳で、M-1史上最年長王者となりました。
23歳で芸人になってから、約27年後のことです。
16歳頃から続けたアルバイト生活を基準にすれば、実に30年以上の時間を経て、お笑いの仕事だけで生活できるようになったことになります。
M-1優勝後、長谷川さんは「人生が変わった」と喜び、渡辺さんも、お笑いだけで生活できるようになったことが一番うれしいと語りました。
この言葉には、賞金や知名度だけでは測れない重みがありますよね。
二人にとって本当の成功とは、有名になること以上に、ようやくアルバイトへ行かず、漫才を本業として暮らせるようになったことだったのでしょう。
長いバイト経験は錦鯉の漫才にどう生きている?
長谷川雅紀さんの仕事歴は、単なる苦労話ではなく、錦鯉の漫才を形づくる大切な材料になっています。
錦鯉の漫才では、長谷川さんが「やってみたい仕事」や夢を語り、その場でシミュレーションを始める形がよく使われます。
長谷川さんが突拍子もない行動を見せ、渡辺隆さんが冷静にツッコむのが基本です。
この形が面白いのは、長谷川さんが現実の仕事を数多く経験しているからではないかと私は考えています。
ホスト、ホテル、飲食店、警備、劇団、テレビのリポーター。
それぞれの現場には、異なる人間関係やルール、失敗、緊張があります。
さまざまな職場を知っている人には、仕事にまつわる具体的な動きや感覚が蓄積されます。
たとえ漫才の中では大げさに崩していても、その根元に現実の手触りがあるため、観客は「いそう」「やりそう」と感じられるのではないでしょうか。
また、長谷川さんの失敗を隠さず笑いに変える姿勢も、長い下積みの中で育ったものだと思います。
借金や貧しい生活、歯を失った経験まで語っていますが、自分を必要以上に立派に見せようとはしません。
渡辺さんから厳しくツッコまれても、明るく受け止めます。
その姿は、職場で叱られたり、失敗をやり直したりしながら働いてきた人々にとって、どこか親しみやすく映るのでしょう。
2020年のM-1決勝後、長谷川さんの年齢や芸歴、天然なキャラクターに裏打ちされた自虐的なエピソードがテレビ番組でも注目されました。
つまり、若い頃には遠回りに見えた経験が、年齢を重ねてから唯一無二の芸へと変わったのです。
人生の無駄に見えた時間が、後になって強みに変わる。
長谷川さんの歩みは、そのことを分かりやすく見せてくれていますよね。
長谷川雅紀の若い頃と仕事人生を振り返って考えること
ここからは、確認できる経歴を踏まえた筆者の考察です。
長谷川雅紀さんの成功を「諦めなければ夢はかなう」とだけ受け取るのは、少し単純すぎるように感じます。
実際の長谷川さんは、迷いなく努力し続けたわけではありません。
芸人としての収入が少ない時期が長く、生活のために深夜の牛丼店で週5日働き、辞めようと思ったこともありました。
一般社会へ移る自信もなく、芸人を辞める勇気もなかったと本人は語っています。
この率直さこそ、長谷川さんの物語を現実的で信頼できるものにしています。
人はいつも前向きな理由だけで続けられるわけではありません。
ほかに行き場が見つからないことや、仲間とのつながり、その場所にいる居心地のよさが、踏みとどまる理由になることもあります。
それでも続けているうちに、新しい相方と出会い、自分の個性を見抜いてくれる先輩と出会い、ようやく流れが変わりました。
錦鯉は結成当初、長谷川さん本来のキャラクターを隠していたため、あまり受けなかったとされています。
その後、事務所の先輩であるハリウッドザコシショウから、長谷川さんの突き抜けた個性を前面に出すよう助言を受けました。
素の長谷川さんを強く出したところ、客席の反応が大きく変わったのです。
これは仕事の世界でも大切な示唆だと感じます。
長谷川さんは若い頃から何十年も働き、舞台に立ち続けましたが、成功したのは努力量だけが理由ではありません。
渡辺さんが長谷川さんの面白さを発見し、ザコシショウさんが見せ方を助言し、それを本人が受け入れたことで、積み重ねてきた経験がようやく伝わる形になりました。
長く続けることと、自分に合う見せ方を見つけることの両方が必要だったのでしょう。
また、長谷川さんのバイト歴は、遅咲きの芸人という話にとどまりません。
働き方が安定せず、周囲と比べて焦りを感じている人にとっても、考える材料になります。
もちろん、誰もが同じように50歳で大きな成功をつかめるわけではありません。
無理をして夢だけを追い続けるべきだとも言えません。
それでも、一つの時期に結果が出なかったからといって、それまでの経験がすべて無価値になるわけではない。
長谷川さんの場合、ホスト時代の接客、劇団での芝居、リポーターの現場対応、飲食店や警備の仕事で見た人間模様が、後の芸に溶け込んでいます。
若い頃の仕事は、M-1へ向かうために設計された経歴ではありませんでした。
しかし振り返れば、ばらばらだった点が一本の線につながっています。
私はそこに、長谷川さんの歩みならではの希望を感じます。
成功しなかった時期も、別の仕事をしていた時間も、後から意味を持つ可能性があるのですね。
まとめ
長谷川雅紀さんの若い頃は、高校卒業後に北海道造形デザイン専門学校へ進んだものの、半年ほどで中退し、フリーター生活を送っていました。
ホストクラブやカプセルホテルで働き、同僚との縁から「劇団しゃどうず」へ入団した後、1994年に23歳で札幌吉本へ入り、芸人へ転身しています。
芸人になってからも収入だけでは暮らせず、牛丼チェーン店で週5日の深夜勤務を約10年間続けたほか、交通警備員など多くのアルバイトを経験しました。
2001年から2002年には北海道テレビの番組でリポーターを務め、2002年には「マッサジル」として上京しましたが、長い間大きな成功には届きませんでした。
40歳で渡辺隆さんと錦鯉を結成し、2020年にM-1決勝へ進出。
そして2021年12月19日、50歳でM-1グランプリ王者となり、ようやくお笑いの仕事だけで生活できるようになりました。
長谷川さんの若い頃を振り返ると、華やかな成功の裏側には、30年以上にわたるアルバイト生活と、何度つまずいても舞台へ戻った年月があったことが分かります。
遠回りに見えた仕事の一つひとつが、現在の親しみやすい人柄と、錦鯉ならではの漫才を育ててきたのではないでしょうか。
よくある質問
長谷川雅紀は若い頃にホストをしていた?
はい。高校卒業後に進んだ北海道造形デザイン専門学校を半年ほどで中退し、その後、ホストクラブでホストとして勤務していました。
長谷川雅紀が長く続けたバイトは何?
牛丼チェーン店の深夜勤務です。2011年の時点で、週5日の勤務を約10年間続けていたとされています。
長谷川雅紀は何歳で芸人になった?
1994年に札幌吉本へ入り、23歳で芸人へ転身しました。その後、2021年に50歳でM-1グランプリ優勝を果たしています。
春野滋(エンタメ&スポーツ愛好家ライター)

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