鮭漁師・伊藤正吉の出身と経歴|漁師として歩んできた道のり

北海道知床の秋の海と斜里の港を背景に鮭漁へ出る漁船と乗組員たちのイメージ 気になったことあれこれ

2026年10月4日放送予定の『情熱大陸』で紹介される伊藤正吉さんは、釧路生まれ、斜里育ちの鮭漁師です。

出身高校は東海大学第四高校で、現在は第二十一北洋丸の代表を務めています。バレーボールの指導者を夢見た学生時代、18歳での就業、大病を経た働き方の転換をたどると、厳しい海に向き合う今の姿が見えてきます。

伊藤正吉の出身・年齢は?情熱大陸で紹介される北洋丸代表

伊藤正吉さんは、1971年に北海道釧路で生まれ、5歳ごろから斜里町で育った漁師です。MBSの番組紹介では55歳とされており、これは今回の番組紹介時点の年齢です。

「浜の兄妹」の本人インタビューによると、斜里へ移った背景には、母親の実家があったことが関係しています。釧路が出生地、斜里が幼少期からの暮らしと仕事の拠点、と整理すると分かりやすいですね。

伊藤さんが率いるのは「第二十一北洋丸」です。運営会社の有限会社北洋共同漁業部は、北海道斜里郡斜里町前浜町を拠点に、サケマス定置漁業などを営んでいます。

『情熱大陸』では、どんな姿が紹介される?

MBS公式紹介によると、放送予定日は2026年10月4日(日)。秋鮭漁が解禁された9月6日から取材が始まり、伊藤さんと乗組員たちが、変化するオホーツクの海で漁業を続ける姿を追っています。

同紹介では、2025年の秋鮭は約50年ぶりの歴史的不漁だったとされ、2026年の来遊予想は前年の半分程度と伝えられています。来遊とは、魚が沿岸などへやって来ることです。

来遊予想は、2026年の最終的な水揚げ実績や、北洋丸だけの漁獲量ではありません。 また、不漁の背景として海水温の上昇に伴う餌環境の変化に触れていますが、原因が明確に分かっているわけではないとしています。

この記事は2026年9月29日時点の放送前情報をもとにした人物紹介です。放送後の反響や、秋鮭漁の結末については、まだ扱っていません。

私は今回の見どころを、不漁に耐える姿だけでなく、伊藤さんがこれまで何を変えてきたのかにあると考えています。漁の種類も、仲間への任せ方も変えてきた歩みを知ると、番組での一つひとつの判断が、より身近に感じられそうです。

伊藤正吉の経歴を年表で確認

時期伊藤さんの歩み・会社の主な動き
1971年北海道釧路で生まれる
5歳ごろ母親の実家がある斜里町へ移る
中学時代バレーボールで北海道代表として全国大会へ出場
高校時代札幌の東海大学第四高校へ推薦入学
18歳高校卒業後、ホタテ漁の仕事を始める
その後の約10年間知床半島方面で刺網漁に従事
30歳前後母方の縁があるサケ定置網漁へ進む
2014年7月大病で現場を離れ、長期療養を経験
復帰後持ち場を交代し、仲間で仕事を補い合う体制へ
2020年会社が新造船「第二十一北洋丸」を迎える
2022年会社が自社工場を設立し、加工品の製造・販売を開始
2023年ブランド桜鱒「知床桜鱗」の出荷・販売を開始

経歴を順に見ると、初めから現在の事業がそろっていたわけではないことが分かります。海の仕事を覚え、続ける方法を探しながら、会社の役割も広げてきたのですね。


伊藤正吉の高校はどこ?バレーボールと教員を目指した学生時代

出身高校は、札幌の東海大学第四高校、現在の東海大学付属札幌高校です。中学時代にバレーボールで活躍し、その実力が評価されて推薦で進学しました。

「浜の兄妹」のインタビューでは、中学生のときに北海道代表として全国大会へ出場し、国体に向けた強化選手にも選ばれたと説明されています。月に1、2回ほど札幌で行われた合宿の会場が、後に進む高校でした。

競技に打ち込むなかで、次の進路へつながっていったのですね。学校名だけでは見えにくい、当時の努力の積み重ねが伝わる経緯です。

「くらしごと」が紹介するポジションはセッター。味方が攻撃しやすいようにトスを上げ、状況を見ながら攻撃を組み立てる役割です。

大学へ進み、バレーボールを教えたかった

伊藤さんが思い描いていたのは、大学を卒業して教員になり、バレーボールを教える将来でした。しかし進学費用の工面が難しく、父親に誘われて、高校卒業後の18歳で漁業の仕事に入ります。

「くらしごと」の取材では、最初から望んで帰郷したわけではなかったという思いも紹介されています。今の代表としての姿だけを見ると意外ですが、仕事人生の出発点には、かなわなかった希望がありました。

私は、後に活躍したからといって、当時の断念まで簡単に「よかったこと」にしてしまいたくありません。望んだ道を離れるつらさと、そこから仕事を築いていった力は、それぞれ大切に受け止めたいところです。

「浜の兄妹」では、自分の子どもには経済的な理由で進学を諦めさせたくなかったという気持ちも語っています。子どもたちを全員大学へ進ませたという話には、若い日の経験が、親としての選択につながったことが表れています。

スポーツを通じて人を育てたかった青年が、後に海で若手と働くようになる。その歩みに私はつながりを感じますが、セッター経験が現在の経営手法を直接生んだと、本人が説明しているわけではありません。

人に仕事を任せるようになった具体的な転機は、後述する大病です。学生時代の夢と、実際に働き方を変えた出来事の両方を知ることで、人物像を一面的にせずに理解できると思います。


伊藤正吉はなぜ鮭漁師に?18歳から経験した三つの漁

伊藤さんは、18歳から鮭漁だけを続けてきたわけではありません。ホタテ漁から始まり、約10年間の刺網漁を経て、30歳前後にサケ定置網漁へ移りました。

「浜の兄妹」の本人インタビューによると、最初のホタテ漁では、斜里の前浜で貝が十分に育たないことや、価格の低さなどが重なり、仕事を続けることが難しくなりました。

その後は知床半島方面で、ホッケ、タラ、ソイ、キンキなどを対象とする刺網漁に従事します。刺網漁は、魚の通り道などに張った網で魚を獲る漁法です。

獲る魚を変えながら経験を重ねた一方、魚価が低く、経営面では苦労もあったと振り返っています。魚を獲る技術を身につけることと、その仕事で暮らしを支えられることは、必ずしも同じではなかったのですね。

母方の会社からの誘いで、サケ定置網漁へ

転機になったのは、母方で営んでいたサケ定置網漁の会社から声がかかったことでした。「浜の兄妹」では30歳での転職、「くらしごと」では20代の終わりに親類の漁業部を継いだと紹介されています。

入社と事業承継が同じ出来事を指しているかは分からないため、経歴としては30歳前後の転身と捉えるのが適切です。当時はサケ漁に上向きの流れがあり、迷いながらも次の仕事へ進んだといいます。

定置網漁は、決まった場所に大きな網を設置し、回遊する魚を誘導して獲る方法です。魚が来る状況に左右される仕事であることが、現在の厳しい来遊予想ともつながっています。

私には、この転身は単なる家業への合流ではなく、海で働き続けるための選択に見えます。自分が慣れた方法を守るだけでなく、別の漁へ踏み出した経験は、その後の事業展開を考えるうえでも見逃せません。

受け継いだ会社は、いつから続いている?

北洋丸の公式沿革では、斜里町での漁業の始まりは1949年です。伊藤さんが創業した会社ではなく、以前から続く事業を受け継いだ立場にあります。

会社は2018年に有限会社北洋共同漁業部へ社名を変更し、2020年に新造船「第二十一北洋丸」を迎えました。2022年には自社工場を設立し、加工品の製造・販売も始めています。

ここで注目したいのは、仕事の範囲が、魚を獲る現場から加工して届けるところへ広がったことです。若いころに魚価で苦労した人物が、売り方にも関わるようになった変化として読むと、会社の沿革が経歴と結びつきます。


2014年の大病で何が変わった?仲間へ仕事を任せるまで

2014年7月、43歳だった伊藤さんは大病で現場を離れ、長期の療養を経験しました。「くらしごと」では札幌の病院へ搬送され、療養は1年半あまりに及んだと紹介されています。

病名については、「くらしごと」は「自己免疫性肝炎」、「浜の兄妹」は「激症肝炎」と記しており、資料間で表現が異なります。 両者の医学的な関係や現在の病状は、本記事では確認していません。

それまで現場の中心にいた人が、海へ出られなくなりました。「浜の兄妹」では、若手を心配しながらも助けに行けず、漁師への復帰を諦めかけた気持ちが語られています。

現場に立てなくても、必要とされた経験

会社から届いたのは、現場に出なくてもよいので仕事を教えてほしい、という趣旨の連絡でした。体を動かす仕事だけでなく、積み重ねた知識や判断も必要とされていたのです。

同インタビューによると、2014年秋には大しけで定置網が流され、伊藤さんが対応のために札幌から斜里へ向かいました。さらに2015年に向けた網の入れ替えでは、札幌にいながら会社と相談し、資材の発注にも関わっています。

そうして仕事と接するうちに、再び意欲が動き始めたと本人は振り返っています。復帰への道には、いきなり以前と同じ働き方へ戻るのではなく、できる役割を通じて仲間とつながる時間がありました。

私はこの経緯に、熟練者の価値は作業の速さや力強さだけではない、と感じます。網の状態を考え、先の準備を判断し、他の人へ伝えられることも、漁を支える大切な仕事なのでしょう。

復帰後は、持ち場を交代できる体制へ

「くらしごと」によると、復帰後の伊藤さんは持ち場を入れ替え、互いの仕事を補える体制づくりを進めました。一人にしか分からない仕事を減らすことは、誰かが休んでも漁を続ける備えになると私は考えます。

同記事では、過去に若手へ怒鳴ることや暴力を伴う指導があったと、本人が振り返っています。その行為を美化せず、仕事を抱え込む状態から仲間へ任せる方向に変えた点を、経歴上の変化として見たいところです。

なお、担当を交代する取り組みは紹介されていますが、個々の資格、教育、習熟度の確認方法までは資料から分かりません。人材育成の方向性と、安全な運用の具体的な評価は分けて受け止めます。

※画像はAIによるイメージ

第二十一北洋丸の現在は?若手と知床桜鱗を育てる取り組み

MBS公式紹介によると、第二十一北洋丸の乗組員は12人で、その半数が30代以下です。船長、船頭、機関士、潜水士、クレーン操縦士など、異なる役割を持つ人たちが協力して漁を行っています。

若手によるSNS発信も紹介されています。海の上の技術だけでなく、自分たちの仕事を外へ伝える役割が生まれていることも、今の北洋丸を知る手がかりです。

私が関心を持つのは、若い人が在籍しているという数字に加え、どのような仕事を担っているかです。漁、加工、販売、発信へと仕事が広がるなかで、経験や得意分野を生かす場も変わってきたように見えます。

「知床桜鱗」は、秋鮭ではなくサクラマスのブランド

2023年に出荷・販売が始まった「知床桜鱗(しれとこおうりん)」は、サクラマスのブランドです。『情熱大陸』で取材の中心となる秋鮭とは、魚種が異なります。

「くらしごと」では、斜里町で獲れた天然サクラマスに、船上での活締め、温度管理、胃洗浄、魚体の選別などを行うと説明しています。紹介されている基準は、脂肪率8%以上、魚体2キログラム以上です。

名前を付けるだけでなく、どんな処理を施し、どの条件で選んだ魚なのかを示しているのですね。買い手が品質の違いを理解するための、具体的な手がかりになっています。

初回の15匹は売れず、2年目には需要が拡大

ただし、手をかけた魚が最初から売れたわけではありません。「くらしごと」によると、初回に出した15匹は売れず、地元の飲食店に試してもらったり、自分たちで催しを開いたりして、知ってもらう機会をつくりました。

その後について、同媒体は2年目には魚が足りなくなるほどの人気になったと報じています。最初の売れ残りだけで終わらず、需要が広がったところまでが、紹介されている挑戦の経過です。

漁師が納得する品質と、買い手が購入したくなる理由の間には、説明や体験が必要だったのでしょう。私は、地元の人に実際に試してもらう働きかけが、その距離を縮めた点に注目しています。

もっとも、需要が増えたという報告と、利益がどれだけ改善したかは別の情報です。販売数量や追加費用を含む採算までは、今回の資料から確認できません。

昆布養殖にも取り組む一方、難しさも経験

MBS公式紹介では、2026年に始めた昆布養殖や、昆布ジェラートの開発も取り上げられています。秋鮭漁以外にも、海と関わる新しい仕事を探していることが分かります。

一方、2026年7月29日に取材した「くらしごと」は、養殖の初年度に流氷やヨコエビの食害の影響を受け、収入がほとんど得られなかったと伝えています。

新しい取り組みを始めたこと自体と、それが安定した収入源になることには距離があります。それでも、成功した面だけでなく難しかった条件も見えることで、北洋丸の現在を現実的に理解できるのではないでしょうか。


伊藤正吉の経歴から何が見える?漁業を続けるための変化

伊藤さんの経歴に通じるのは、漁獲量だけに将来を委ねず、自分たちで変えられる仕事へ手を伸ばしてきたことだと私は考えます。漁法の転換、仕事の共有、加工・販売への展開は、それぞれ異なる時期に選んだ、働き続けるための方法でした。

特に知床桜鱗の経過は、品質基準を示すこと、試してもらう機会をつくること、需要を育てること、という順序で読むと理解が深まります。脂肪率や重量の条件は違いを説明する材料になり、飲食店などでの体験は、その違いを買い手に確かめてもらう機会になります。

そこから2年目の需要拡大へ進んだという取材報告は、魚を獲った後の働きかけにも意味があったことを示唆しています。ただし、それぞれの施策が売れ行きにどの程度影響したかまで、資料が検証しているわけではありません。

若いころの伊藤さんは魚価の低さに苦労しました。現在のブランドづくりは、魚の価値が伝わる条件を自分たちでも整えようとする取り組みとして、その経験と結びつけて捉えられます。

一方で、サクラマスへの需要が増えても、秋鮭の不漁をどれだけ補えるかは別の問題です。選別や処理、保管、販売にも手間と費用がかかるため、現時点で確認できる成果は需要の拡大という報告までであり、会社全体の利益改善までは言い切れません。

もう一つ、私が見守りたいのは、療養中に伊藤さんが担った「経験を渡す仕事」が、若手の成長へどうつながっていくかです。長く続く会社に必要なのは、代表が何でもできることだけでなく、代表の判断を次の人が少しずつ理解できることでもあると思います。

10月4日放送予定の『情熱大陸』では、水揚げの多い少ないに加え、乗組員同士がどのように相談し、役割を果たすのかにも目を向けたいですね。そこには、大病を経て働き方を変えた伊藤さんの、その後の歩みが表れるかもしれません。

釧路に生まれ、斜里で育ち、東海大学第四高校から海の仕事へ進んだ伊藤正吉さん。ホタテ漁、刺網漁、サケ定置網漁を経験し、療養を経て仲間への任せ方を変えてきた経歴は、今の北洋丸を理解する大切な背景です。


よくある質問

伊藤正吉さんの出身地は釧路ですか、斜里ですか?

出生地は北海道釧路です。5歳ごろに斜里町へ移り、斜里で育ちました。

伊藤正吉さんの出身高校と、目指していた職業は?

東海大学第四高校で、現在の東海大学付属札幌高校です。大学へ進学し、教員としてバレーボールを教えることを目指していました。

伊藤正吉さんは18歳から鮭漁師だったのですか?

18歳で始めたのはホタテ漁です。その後に約10年間の刺網漁を経験し、30歳前後にサケ定置網漁へ進みました。

参照資料と執筆について

本記事は、提示されたMBS『情熱大陸』の公式紹介、「浜の兄妹」の本人インタビュー、「北海道の人、暮らし、仕事。くらしごと」の取材記事、北洋丸公式サイトの会社概要・沿革に関する情報をもとに構成しています。筆者が伊藤さんへ直接取材した記事ではありません。

「くらしごと」の記事は2026年9月9日公開、同年7月29日取材とされます。「浜の兄妹」のインタビューは2025年3月7日公開、2026年4月20日の更新表示がある資料として扱い、媒体による記述の違いは本文で補っています。

執筆者の春野滋は、エンタメとスポーツを主な関心分野に、人物の経歴や転機を分かりやすく伝えることを大切にしています。今回は、提示資料にある学生時代から現在までの歩みを整理し、取材記事で報告された事実と筆者の考察を分けて紹介しました。

春野滋(エンタメ&スポーツ愛好家ライター)

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