根附海龍選手の両親は、自宅ランプの設置と大会送迎で、7歳からの競技生活を支えました。
母親がスケートボードとの出会いを作り、小学4年生頃には両親が自宅に練習環境を用意。中学生以降は、本人が練習の主導権を握るようになったと明かしています。
根附海龍の両親はどんな人?確認できた支援とは
根附海龍選手の父親と母親は、競技との出会い、日常の練習、大会への移動という三つの面から成長を支えました。
家族について最も詳しい資料は、鈴木一朗さんが取材・執筆した本人インタビュー「根附海龍(スケートボード)『世界ではまだアマチュア。トップスケーターになりたい』」です。
この記事は、2024年2月22日発売の雑誌『Tarzan』No.874に掲載された後、2024年3月17日に「Tarzan Web」で全文公開されました。
2026年8月16日までに参照した公開資料から、確認できたことと確認できなかったことを整理します。
項目 確認できたこと 今回の資料では確認できなかったこと
母親 根附選手が7歳のときにスケートボードを勧めた 氏名、年齢、職業、競技経験
父親・母親 小学4年生頃に自宅へランプを造った どちらが設計・施工したのか
両親 大会があれば車で会場へ連れていった 送迎した大会数、距離、費用
両親の接し方 幼い根附選手へ積極的に挑戦を促した 詳細な教育方針や安全対策
兄弟姉妹 公開資料に具体的な記載が見当たらない 人数、氏名、年齢
出身地 静岡県島田市 両親の出身地や家系のルーツ
父親と母親の氏名や職業は明らかになっていません。自宅に練習設備を用意したからといって、家庭の経済状況や両親の職業を推測することはできません。
家族を扱う記事では、分からない部分へ想像を膨らませるより、本人が語った行動を見ることが大切ですよね。
根附選手の両親について注目したいのは肩書ではなく、子どもが競技を続けるために必要な時間と場所を、成長段階に合わせて用意したことだと私は考えます。
なお、スポーツメディア「CROSSOVER」が2024年2月26日に公開した記事「スケートボード・根附海龍『守りに入らない』」では、媒体側の紹介として、両親が自宅の庭に練習場を作るなどして支えたと記されています。
『Tarzan』は「自宅にランプを作った」と説明し、「CROSSOVER」は「自宅の庭に練習場を作った」と紹介しています。表現の範囲には違いがありますが、家庭内に練習できる環境が用意されたという点は共通しています。
ただし、二つの記事から「庭全体が専用スケートパークだった」とまで断定することはできません。確認できる範囲では、ランプを含む練習場所が自宅にあったと捉えるのが適切でしょう。
母親はなぜ7歳の根附海龍にスケートボードを勧めた?
根附海龍選手が7歳でスケートボードを始めたきっかけは母親の勧めですが、勧めた理由までは公表されていません。
『Tarzan』の本人インタビューには、7歳のときに母親から勧められて始めたという経緯が記されています。
CORED株式会社の選手プロフィールでも、根附選手は2003年8月19日生まれ、静岡県島田市出身で、小学1年生から本格的にスケートボードを始めたと紹介されています。
所属先による公式プロフィールにも「7歳からスケートボードを始めた」という記載があります。学年表記と年齢表記には資料ごとの違いがありますが、競技を始めた時期はおおむね一致しています。
一方、次の点は明らかになっていません。
- 母親自身にスケートボード経験があったのか
- 根附選手が先に興味を示していたのか
- 母親が将来の競技選手を目指して勧めたのか
- 家族の誰かがスケートボードをしていたのか
母親が幼い息子の才能を最初から見抜いていた、という証言も確認できません。家族で楽しめる活動として勧めた可能性はありますが、それも資料に基づかない想像です。
確かなのは、母親が開いた最初の扉から、根附選手が長い時間をかけて自分の道を広げていったことです。
2019年11月10日に米国フロリダ州のSkatepark of Tampaで行われた「30th Annual Tampa Am」の決勝では、根附選手が1位を獲得しました。大会公式結果には、静岡、日本の選手として「Kairi Netsuke」の名前が掲載されています。
さらに、2023年12月13日から東京・有明コロシアムで開かれた「ワールドスケートボードストリート世界選手権2023東京」では男子ストリートの銀メダルを獲得しました。決勝が行われたのは12月17日です。
7歳で始めた競技が、16歳で世界的なアマチュア大会の優勝へつながり、20歳で世界選手権の表彰台へ届いたことになります。
もちろん、この結果を母親の勧めだけで説明することはできません。世界で戦える選手になったのは、根附選手本人が何年も技を磨き、失敗やけがとも向き合ってきたからです。
それでも母親の役割は、ひと言で表すなら、息子が夢中になれるものと出会うきっかけを作ったことでしょう。
親が子どもへ何かを勧めても、長く続くとは限りません。始めさせるだけで終わらず、その後も家族で環境を整えたところに、根附家の支援の特徴が表れているのではないかしら。
自宅ランプと大会送迎はどのような支援だった?
両親は、小学4年生頃に自宅へランプを造り、大会が開かれる際には根附海龍選手を車で会場まで送っていました。
ランプとは、湾曲した斜面を上り下りして滑るための構造物です。『Tarzan』の記事では、楕円を半分に切ったような形と説明されています。
根附選手が主に取り組むストリート種目では、階段や手すり、縁石などを模した障害物を使って技を競います。そのため、自宅のランプだけでストリート競技の技術が完成したわけではありません。
ただ、身近な場所に滑れる設備があれば、板に乗る時間や練習の選択肢を増やせます。これは設備の性質から考えられる一般的な見方であり、自宅ランプが後の成績を直接生んだと本人や指導者が説明したわけではありません。
むしろ興味深いのは、根附選手本人が、小学生の頃にはランプを滑るのが怖かったと率直に明かしていることです。
両親については、幼い自分にさまざまな挑戦を促す「攻めるタイプ」だったという趣旨で振り返っています。あれもやってみよう、これにも挑戦しようと背中を押され、少しやめたいと思った時期もあったそうです。
この発言は、本人が笑いを交えながら少年時代を回想した文脈で紹介されています。一部分だけを切り取り、「両親が厳しすぎた」「無理やり競技をさせた」と決めつけるのは適切ではありません。
一方で、最初から何の迷いもなく成功への階段を上ったわけでもないのでしょう。
後年の結果を知っていると、自宅ランプは世界で活躍するために用意された理想的な設備だったように見えます。しかし当時の根附少年にとっては、楽しさだけでなく怖さを感じる場所でもありました。
この両方を知ることで、家族の支援が急に現実味を帯びてきますよね。挑戦させる両親と、怖さを感じながら少しずつ滑る少年が、家庭の中で試行錯誤を重ねていたのでしょう。

もう一つの大きな支援が、大会への車での送迎です。
根附選手は静岡県島田市の出身です。小学生や中学生が地元以外の大会へ継続的に出場するには、本人の意欲だけでなく、保護者による移動の助けが必要になります。
公表資料には、大会ごとの移動距離、回数、費用、宿泊の有無までは記されていません。そのため、家庭が負担した時間や金額を具体的に示すことはできません。
それでも、大会へ出るたびに車で連れていったという本人取材の記述から、両親が競技生活へ継続的に関わっていたことは分かります。
送迎は、会場へ着けば終わるものではありません。競技開始に合わせた出発、道具の準備、会場での待機、終了後の帰宅までを含む家族の時間です。
息子たちの試合に付き添った経験がある私も、競技そのものが数十分でも、家族の一日は早朝から夜まで続くことが珍しくないと感じてきました。もちろん、根附家の具体的な遠征事情が私の経験と同じだったと断定することはできません。
ただ、設備と送迎を一続きにして見ると、両親の支援の意味がよく分かります。
自宅ランプは、日々滑る機会を支えました。車での送迎は、自宅の外でほかの選手と競い、実戦経験を積む機会を支えました。
つまり、両親は技そのものを教えたというより、日常の反復と外部での挑戦を行き来できる環境を用意したのです。この二つがそろっていた点こそ、根附選手の家族を読み解く重要なポイントだと考えます。
中学生以降、両親の支援から本人主導へどう変わった?
中学生になって大会で勝てるようになると、根附海龍選手は練習や技について自分で判断するようになりました。
『Tarzan』の本人インタビューによれば、中学生になる頃には多くの大会で勝てるようになり、プロを目指せるほどの水準に近づいていきました。
その段階から、競技については徐々に自分で取り組むようになったと話しています。自分の体や滑りの感覚は、自分自身が一番理解しているという意識も芽生えていました。
これは、家族との関係が途切れたという意味ではありません。幼い頃に両親が握っていた競技生活のハンドルを、成長した根附選手が自分で握るようになったという変化です。
7歳では母親が競技への入口を作り、小学生の時期には両親がランプと送迎を用意しました。そして実力が伸びると、本人が練習内容や技を考える範囲を広げていきます。
この時期には、青木勇貴斗選手という身近な練習仲間の存在も大きかったと語っています。
根附選手と青木選手は、ほぼ毎日のように二人で練習していました。根附選手は青木選手の高い技術に刺激を受け、自分も上達したという趣旨で振り返っています。
つまり、成長の中心が「親から挑戦を促される時間」から、「仲間の滑りを見て、自分で考えながら挑む時間」へ移ったのです。
ここには、家庭支援が競技者の自立へつながっていく流れが見えます。
親が技術的な判断をいつまでも代行するのではなく、本人の感覚や選択が中心になる。自由な技の構成や表現も大切にされるスケートボードだからこそ、この主導権の移行には大きな意味があったと私は感じます。
ただし、両親が計画的な教育方針として自立を促したのかは明らかになっていません。「最初から自立を設計していた」と美しい物語に整えすぎないことも必要です。
公表された事実から言えるのは、成長とともに根附選手自身の判断が増えたということです。その背景には、幼い時期に活動範囲を広げてもらい、仲間や大会と出会える場所へ進めたことがあったのでしょう。
根附海龍の家族構成や国籍は公表されている?
父親と母親の存在は確認できますが、兄弟姉妹についての情報は、今回参照した公開資料では確認できませんでした。
『Tarzan』の本人インタビューには「母親」「両親」「親」という表現があり、父親と母親が少年時代を支えたことが分かります。
一方、『Tarzan』『CROSSOVER』、CORED株式会社、所属先の選手プロフィールなど、今回確認した資料には兄弟姉妹の具体的な記載が見当たりません。
したがって、根附選手が一人っ子であるとも、兄や姉、弟や妹がいるとも断定できません。父親と母親についても、氏名、年齢、職業、出身地は不明です。
国籍については、今回参照した公開プロフィールに独立した国籍欄は見当たりませんでした。
根附選手が2003年8月19日生まれで、静岡県島田市出身であること、日本を代表する選手として国内外の大会に出場していることは各プロフィールや大会結果から確認できます。
ただし、両親の国籍や家系の海外ルーツに関する公表情報は確認できません。名前の響きや英字表記、外見などからルーツを推測することもできないでしょう。
検索する方へ簡潔に答えるなら、根附海龍選手は静岡県島田市出身で日本を代表して活動していますが、今回参照したプロフィールには国籍欄や両親のルーツに関する記載は見当たりませんとなります。
国籍を必要以上に疑問視するより、公開されている競技プロフィールの範囲をそのまま伝えることが、本人と家族への配慮にもつながると考えます。
両親の支援から見える根附海龍の成長を考察
根附海龍選手の家族について時系列で見ると、両親の支援には三つの段階があったことが分かります。
最初は、7歳の息子へ母親がスケートボードを勧めた「出会い」の段階です。
次は、小学4年生頃に自宅へランプを造り、大会へ車で連れていった「環境づくり」の段階。そして中学生以降、本人が練習や技を判断するようになった「自立」の段階です。
この流れから、根附選手の両親は結果を直接作った人というより、本人が自分で成長できる機会を増やした伴走者だったと考えられます。
もちろん、自宅ランプがあったからTampa Amで優勝できた、あるいは送迎があったから世界選手権で銀メダルを取れたと、単純な因果関係で結ぶことはできません。
大会結果には、本人の練習量、技術、仲間との切磋琢磨、体調、会場への適応、当日の判断など、さまざまな要素が関わります。
それでも、幼い選手が競技を続けるには「練習したい」という気持ちだけでは越えにくい壁があります。滑れる場所へ行くこと、大会へ移動すること、外の選手と競うことは、子ども一人では完結しにくいからです。
根附家の支援で注目したいのは、両親が先回りしてすべての答えを与えたのではなく、挑戦できる範囲を広げた点です。
ランプを怖がり、少しやめたいと思ったこともあった少年が、やがて自分の感覚を信じて練習する選手へ変わりました。この変化は、親の期待に応えるだけの競技生活から、自分の意思で滑る競技生活へ進んだことを示しているように感じます。
スポーツを応援していると、家族の支援は設備や費用といった目に見えるものだけで語られがちです。しかし本当に難しいのは、成長した子どもへ判断を委ねるタイミングなのかもしれません。
根附選手の場合、母親の勧めから始まった競技が、最終的には本人の感覚と選択によって進むものになりました。
「始めるきっかけを作る」「続けられる場所を整える」「外へ挑戦する移動を支える」「本人の判断が育ったら主導権を渡す」。この四つを一本の流れとして見られることが、根附家のエピソードにある大切な価値ではないでしょうか。
両親の名前や職業が分からなくても、何をしてきたかは本人の言葉から読み取れます。
私は、肩書よりも行動から伝わる家族の姿にこそ、ひたむきに競技を続ける若者を支える温かさが表れていると感じました。
まとめ
根附海龍選手は、7歳のときに母親の勧めでスケートボードを始めました。
鈴木一朗さんによる本人インタビュー「根附海龍(スケートボード)『世界ではまだアマチュア。トップスケーターになりたい』」では、小学4年生頃に両親が自宅へランプを造り、大会があれば車で会場へ連れていったことが紹介されています。
幼い頃の両親は、新しいことへ積極的に挑戦させるタイプでした。根附選手はランプを怖いと感じ、少しやめたいと思ったこともありましたが、中学生になると大会で勝てるようになり、競技について自分で判断するようになりました。
父親と母親の氏名や職業、兄弟姉妹の有無は、今回参照した資料では確認できません。国籍についても独立した記載欄は見当たりませんでしたが、静岡県島田市出身で、日本を代表する選手として活動していることは確認できます。
根附選手の両親が支えたのは、勝利そのものではありません。競技と出会うきっかけ、日常的に練習できる場所、大会へ挑戦する機会を用意し、本人が自分で進めるようになるまで伴走したことに大きな意味があったと考えられます。
よくある質問
根附海龍の父親と母親の名前や職業は?
2026年8月16日までに今回参照した公開資料では、父親と母親の氏名、年齢、職業は確認できません。自宅ランプの設置や大会への送迎で支えたことは、本人インタビューに記されています。
根附海龍に兄弟や姉妹はいる?
兄弟姉妹に関する具体的な記載は確認できません。一人っ子とも、兄弟姉妹がいるとも断定できない状況です。
根附海龍の両親はどのように競技を支えた?
母親が7歳の根附選手へスケートボードを勧め、両親は小学4年生頃に自宅へランプを造りました。大会が開催される際には、車で会場まで送っていたことも本人インタビューで確認できます。
春野滋(エンタメ&スポーツ愛好家ライター)


コメント