村竹ラシッド選手の両親は、跳躍競技の経験があるトーゴ人の父親と日本人の母親です。パリ五輪では、母親から届いたLINEが緊張する村竹選手の気持ちを変える大きな支えになりました。
父親の詳しい競技歴やご両親の名前・職業などは公表情報が限られています。この記事では、報道や村竹選手本人のインタビュー、日本陸連の公式記録で確認できる事実を中心に、ご両親と世界的ハードラーへ成長した村竹選手の歩みを丁寧に見ていきます。
村竹ラシッドの両親はどんな人?父はトーゴ人、母は日本人
村竹ラシッド選手は、トーゴ人の父親と日本人の母親のもとに生まれた日本の陸上競技選手です。
2002年2月6日生まれで、千葉県松戸市出身。日本陸上競技連盟の公式プロフィールでは、松戸市立第一中学校、千葉県立松戸国際高校、順天堂大学を経て、現在はJALに所属しています。
専門は男子110mハードルです。
2024年パリオリンピックでは、日本選手としてこの種目で初めて五輪決勝へ進み、13秒21で5位入賞。さらに2025年8月16日のアスリートナイトゲームズin福井では12秒92の日本新記録を樹立し、日本選手として初めて13秒の壁を破りました。
まず、現在公に確認できる家族情報を整理すると次のようになります。
- 父親:トーゴ人。跳躍競技の経験があるとスポーツ紙などで報道
- 母親:日本人。2024年パリ五輪を現地で応援
- 村竹ラシッド選手:2002年2月6日生まれ、千葉県松戸市出身、JAL所属
- 兄弟姉妹:本人や所属先などによる明確な公表は確認できない
- 父親の氏名・年齢・職業:公表された確かな情報は確認できない
- 母親の氏名・年齢・職業:公表された確かな情報は確認できない
一部のインターネット記事では「一人っ子」とする紹介も見られますが、兄弟姉妹について村竹選手本人や日本陸連、所属先などが明確に示した情報は、少なくとも広く確認できる資料では見当たりません。
そのため、「一人っ子」と断定するより、「兄弟姉妹については公表情報が確認できない」とするほうが正確でしょう。
家族の記事を書いていると、同じ内容が複数サイトへ転載されるうちに、最初は推測だったものが事実のように見えてしまうことがあります。
私自身、スポーツ選手の家族を調べるときには、「誰が語った情報なのか」「公式プロフィールで確認できるのか」をできるだけ分けて見るようにしています。
村竹選手のご両親の場合、プロフィールそのものはほとんど公表されていません。
しかし、母親については村竹選手本人が語った印象的なエピソードがあります。
それが、2024年パリオリンピック決勝前に届いたLINEでした。
プロフィールの細かな数字以上に、そこから見える親子の距離感のほうが、ご家族を知る大きな手がかりになっているように感じます。
村竹ラシッドの父親はトーゴ人!跳躍競技の経験者と報道
村竹ラシッド選手の父親は、西アフリカのトーゴ出身の人物です。
日刊スポーツなどの選手紹介では、村竹選手について「跳躍競技の経験があるトーゴ人の父と日本人の母のもとに生まれた」と報じられています。
この点から、父親が何らかの陸上競技、特に跳躍種目に取り組んでいたことは、複数のスポーツ報道で確認できます。
ただし注意したいのは、その先です。
インターネット上では「走り幅跳びの選手だった」「三段跳びをしていた」「トーゴ代表だった」といったさらに詳しい説明も見かけます。
しかし、父親の氏名や公式競技記録、代表歴まで確認できる一次資料は十分ではありません。
したがって、現時点で確実性を重視するなら、
「父親はトーゴ人で、跳躍競技の経験があると報じられている」
というところまでにとどめるのが適切でしょう。
ここは、村竹選手の強さを考えるうえでも大切だと思います。
父親がアフリカ出身で陸上経験者だと聞くと、「お父さん譲りの身体能力なのでは?」と考えたくなる方もいらっしゃるかもしれません。
けれど、110mハードルという競技は、単純な脚力や跳躍力だけで決まるものではありません。
男子110mハードルでは、スタートから第1ハードルまで加速し、その後は原則としてハードル間を3歩のリズムで走りながら、10台を越えてフィニッシュへ向かいます。
ハードルを大きく高く「跳ぶ」のではありません。
できるだけ重心を上下させず、前へ進むスピードを失わないように越えていくことが求められます。
踏み切る位置が少しずれれば、着地位置も変わります。
着地がずれると次の3歩のリズムも乱れ、さらにその次のハードルへ影響する。
まるで歯車が10組続いているような、とても繊細な競技なのですね。
村竹選手自身も東京都の「TOKYO FORWARD 2025」のインタビューで、ハードルについて、スタートからトップスピードへ持っていくこと、ハードルぎりぎりを攻めること、ハードル間を速く刻むことなど、技術的な難しさを説明しています。
そして、自分は「凝り性」で、技術を突き詰めていくことが競技にも生かされているという趣旨を語っています。
私はここが、とても村竹選手らしい部分だと思うのです。
父親から何らかの身体的な長所を受け継いでいる可能性はもちろんあります。
しかし、それを日本記録12秒92のハードリングへ変えたのは、何年にもわたって一つ一つの動きを磨いてきた本人です。
一方で、もし父親が競技経験者だったのであれば、家庭の中に「スポーツに本気で取り組むこと」への理解があった可能性は考えられます。
記録が伸びない時期もある。
ケガで走れない時期もある。
大切な大会で思うような結果が出ないこともあります。
実際、村竹選手は高校時代に腰椎分離を経験し、約4か月思うように動けなかったことを明かしています。
さらに2021年の日本選手権では、東京五輪代表を目指す大一番の決勝で不正スタートによる失格を経験しました。
そんな競技人生を長く続けていくためには、本人の意志だけでなく、周囲の理解も大きいですよね。
父親の詳しい人物像について確認できる情報は少ないものの、私は「どんな記録を持つ父親なのか」ということ以上に、競技を続ける息子を家庭で見守ってきた存在だったことに目を向けたいなと思います。
村竹ラシッドの母親はどんな人?パリ五輪決勝前のLINEが話題
村竹ラシッド選手の母親は日本人です。
一般の方とみられ、名前や職業などの詳しいプロフィールは公表されていません。
一方、母親については村竹選手本人が語った、とても印象的なエピソードがあります。
2024年パリオリンピックの男子110mハードルで、村竹選手は日本選手として初めて五輪決勝へ進出しました。
そこまで来れば、もう怖いものなどないようにも見えますよね。
ところが本人は、決勝前にかつてないほど緊張していたそうです。
東京都スポーツ推進本部の「TOKYO FORWARD 2025」のインタビューで、村竹選手は決勝前のウォーミングアップ中について、かなり沈んだ気持ちになり、本当にこれから走るのかと思うほどだったと振り返っています。
そこへ連絡してきたのが、パリまで応援に来ていた母親でした。
母親はLINEで、村竹選手の表情が怖くなっていることを指摘し、もっと楽しんで笑顔で臨むよう促したそうです。
村竹選手はその言葉などをきっかけに、「失うものはない」という前向きな考えへ切り替えられたと語っています。
この話を知ったとき、私は何ともお母さんらしいなあと感じました。
息子がオリンピックの決勝へ進んだのです。
親なら「頑張って」「メダルを取って」と言いたくなるかもしれません。
それなのに母親が気にしたのは、順位でもタイムでもなく、息子の顔でした。
「顔が怖くなっているよ」「せっかくここまで来たのだから楽しんで」。
そんな気持ちだったのかしら、と想像すると、ごく普通の親子の会話が、世界最高峰の舞台につながっていることに胸が温かくなります。
トップアスリートには、技術を見るコーチがいます。
身体を整えるトレーナーや医療スタッフもいます。
けれど、長年そばにいる家族だからこそ気づけることもあるのでしょう。
「今日はいつもの顔じゃないよ」と言える人。
それは、競技の専門知識とは違う、とても大切なサポートなのだと思います。

そして決勝の選手紹介では、村竹選手が漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を思わせるポーズ、いわゆる「ジョジョ立ち」を披露して大きな話題になりました。
ただし、ここも事実関係を丁寧に分けておきましょう。
村竹選手によれば、ジョジョ立ちそのものは母親のLINEを受けて思いついたわけではありません。
前日の夜、同じパリ五輪日本代表の鵜澤飛羽選手と食事をしているときに、鵜澤選手が普段から選手紹介でさまざまなポーズをしていることを思い出し、自分もやろうと考えていたそうです。
つまり、
母親のLINE=緊張した気持ちを前向きに変えるきっかけ
ジョジョ立ち=前日から考えていた選手紹介のパフォーマンス
というのが正確な整理です。
結果として、母親の「もっと楽しんで」という言葉を受けたあとに、自分らしいポーズで決勝の舞台へ入っていった。
私はこの流れが、とても村竹選手らしくて好きです。
緊張がなくなったから強いのではありません。
緊張したままでも、自分らしい状態へ戻る方法を見つけてスタートラインへ向かった。
トップ選手のメンタルというのは、「緊張しないこと」ではなく、「緊張しても走れる状態へ戻せること」なのかもしれませんね。
村竹ラシッドは千葉県松戸市出身!小5から陸上を始めた
父親がトーゴ人であることから、「村竹ラシッド選手自身はどこで生まれたの?」と気になる方もいるでしょう。
村竹選手は2002年2月6日、千葉県松戸市生まれの日本代表選手です。
スポーツ紙のプロフィールでは、松戸市立相模台小学校5年生のときに陸上競技を始めたと紹介されています。
本人も「TOKYO FORWARD 2025」のインタビューで、小学5年生から陸上を始めたと話しています。
もともと足が速く、先生たちから陸上を勧められていたそうです。
ところが最初は、部活動に入ると放課後に遊べなくなるため断っていたのだとか。
これを聞くと、少し親近感が湧きませんか。
将来の日本記録保持者が、小学生のころから「絶対にオリンピックへ行く」と陸上一筋だったわけではないのです。
5年生になって「そこまで言うなら」と気まぐれで始めてみたところ、思った以上に楽しかった。
そこから陸上人生が始まっています。
中学では100mや走幅跳にも取り組みました。
その中で、走ることと跳ぶことの両方があるハードルに興味を持ち、中学1年の夏ごろから本格的に取り組むようになったそうです。
松戸市立第一中学校を経て、千葉県立松戸国際高校へ進学。
高校3年時には全国高校総体の男子110mハードルで優勝し、世代トップクラスの存在となりました。
ただ、その道のりは順風満帆ではありません。
高校2年時には腰椎分離を患い、約4か月思うように競技ができない時期を経験しています。
村竹選手はこの故障を、後に競技人生の大きなターニングポイントの一つとして挙げています。
もう一つの転機が、順天堂大学2年時の2021年日本選手権です。
東京五輪出場を狙える位置まで成長しながら、男子110mハードル決勝で不正スタート。
勝負して負けたのではなく、スタートを切ることすらできないまま五輪への道が閉ざされました。
本人も後に「人生で一番悔しい試合」という趣旨で振り返っています。
それでも翌2022年にはオレゴン世界選手権代表入り。
2023年9月の日本学生陸上競技対校選手権では13秒04を記録し、当時泉谷駿介選手が持っていた日本記録に並びました。
2024年からはJALに所属。
そして同年、ついにパリ五輪の決勝へ進んだのです。
こうして振り返ると、母親がパリでかけた「楽しんで」という言葉も、少し違って見えてきますよね。
そのスタートラインへ立つまでに、ケガも失格も世界大会の予選敗退も経験してきた。
家族はおそらく、結果だけではなく、その長い道のりも見てきたのでしょう。
だからこそ、「ここまで来たのだから楽しんで」という言葉には重みがあるのだと私は思います。
パリ五輪5位から12秒92へ!村竹ラシッドが日本記録を更新
パリ五輪の決勝で、村竹ラシッド選手は13秒21で5位に入りました。
日本選手が男子110mハードルのオリンピック決勝へ進んだのは初めて。
世界のファイナリスト8人の一人になっただけでも、日本陸上史に残る出来事でした。
しかし村竹選手の歩みは、そこで止まりませんでした。
日本陸連の公式プロフィールに掲載された年次ベストを見ると、記録の伸び方がよく分かります。
年 110mハードル年次ベスト
2020年 13秒61
2021年 13秒28
2022年 13秒27
2023年 13秒04
2024年 13秒07
2025年 12秒92
2026年 13秒05
2020年には13秒61だった選手が、5年後には12秒92。
一気に魔法のように速くなったのではなく、13秒6台、13秒2台、13秒0台と階段を上り、その先に12秒台があります。
そして2025年8月16日、福井県の9.98スタジアムで開催されたアスリートナイトゲームズin福井。
男子110mハードル決勝で、村竹選手は追い風0.6mの条件のもと12秒92を記録しました。
それまでの日本記録は、泉谷駿介選手と村竹選手自身が持っていた13秒04。
そこから0秒12もの更新です。
100分の1秒を削ることに選手たちが何か月、何年と取り組む短距離競技で、0秒12という更新幅には驚かされますよね。
しかも、これによって日本選手として初めて13秒を切りました。
「12秒台の日本人ハードラー」が誕生した瞬間です。
その約1か月後、2025年9月16日の東京世界陸上では13秒18で5位入賞。
順位だけを見ると、パリ五輪と同じ「5位」です。
しかし、本人の受け止め方はまったく違いました。
日本陸連が公開したレース後のコメントでは、パリ五輪からの1年間、本気でメダルを取ろうと練習してきたからこそ、「何が足りなかったんだろう」と悔しさをにじませています。
メダルまでは0秒06でした。
パリ五輪では、日本選手として初めて決勝へ進んだ喜びがありました。
東京世界陸上では、決勝進出がゴールではなくなり、「メダルを取れなかったこと」が悔しい。
同じ5位でも、立っている場所は明らかに変わっています。
私はこの変化こそ、村竹選手が世界トップへ近づいた証拠だと思っています。
そして2026年5月10日、大阪で行われた木南道孝記念では、向かい風0.2mの男子110mハードル決勝を13秒05で優勝しました。
World Athleticsの公式結果でも、村竹選手の1位、13秒05が確認できます。
12秒92という大記録を出した翌シーズンにも13秒0台前半で走っている。
日本記録が一度の偶然ではなく、世界トップクラスと戦う力が定着してきたことを示す材料と言えるでしょう。
そして2026年には、愛知・名古屋アジア競技大会の日本代表にも内定しています。
両親について調べ始めた記事なのに、どうしてここまで競技歴を書くのかしらと思われるかもしれません。
でも私は、ここがとても大事だと考えています。
「父親がトーゴ人」というルーツだけを切り取れば、村竹選手の身体能力を出自だけで説明する記事になってしまいます。
けれど年ごとのタイムを見ると、強さが一朝一夕に出来上がったものではないことがよく分かるのです。
ルーツは村竹ラシッド選手を形づくる背景の一つ。しかし、日本記録保持者になった物語の中心にあるのは、本人が積み上げた技術と時間です。
私はそこを忘れずに見ていたいと思います。
村竹ラシッドの両親から見える「強さの原点」を考察
ここからは、確認できた事実をもとにした私なりの考察です。
村竹ラシッド選手のご両親について調べて、一番心に残ったのは父親の出身国でも競技歴でもありませんでした。
やはり、パリ五輪決勝前の母親のLINEです。
世界で8人しか立てないオリンピック決勝。
息子がそこへ進めば、「ここまで来たならメダルを」と期待してしまっても不思議ではありません。
でも、母親がまず見たのは結果ではなく表情でした。
これは、長く子どもを見てきた親だからこその視点だったのではないでしょうか。
コーチならフォームを見る。
トレーナーなら身体の状態を見る。
母親は顔を見た。
この違いが、とても象徴的に感じられます。
もちろん母親の一言だけで5位になれたわけではありません。
そこは分けて考えなければいけませんよね。
しかし村竹選手本人が、母親の言葉によって前向きに切り替えられたと語っている以上、あのメッセージが精神面の一つの支えになったことは確かでしょう。
そして面白いのは、その後の村竹選手が世界の舞台でも選手紹介のパフォーマンスを楽しんでいることです。
パリ五輪のジョジョ立ちは前日から計画していたものですから、母親の言葉が直接生み出したわけではありません。
それでも、極度の緊張の中で「楽しむ」という感覚を思い出し、自分らしいポーズで世界の観客の前へ出ていった経験は、村竹選手にとって一つの成功体験になったのではないかと私は考えています。
真剣に勝ちにいくことと、舞台を楽しむこと。
一見すると反対のようですが、トップスポーツでは両方が必要なのかもしれません。
緊張をなくそうとすればするほど、余計に身体が固くなる。
ならば緊張している自分も受け入れながら、「せっかくここまで来たのだから楽しもう」と切り替える。
母親の言葉は、そんなスイッチだったのでしょう。
一方の父親については、跳躍競技経験者と報道されています。
もし幼いころからスポーツ経験のある父親が身近にいたのであれば、競技へ打ち込むことに理解のある家庭だった可能性はあります。
ただし、私は「父親が陸上選手だったから村竹選手も速い」という説明にはしたくありません。
そもそも村竹選手本人は、小学生のころからハードル一筋だったわけでもありません。
小5で陸上を始め、中学では100mや走幅跳も経験し、その中から自分に合う種目としてハードルを選んでいます。
高校では腰椎分離。
大学では東京五輪選考につながる日本選手権で不正スタート。
2022年の世界陸上は予選敗退。
2023年には故障で日本選手権や世界選手権を断念しています。
これだけのつまずきを越え、そのたびに競技へ戻ってきた結果が、パリ五輪5位と12秒92です。
そこを「親譲りの才能」の一言で片づけてしまうと、村竹選手が積み上げたものの大半を見落としてしまいますよね。
私が感じる村竹選手の強みは、むしろ自分の競技を細かく分析し、改善し続けられる性格です。
本人が「凝り性」と表現する性格は、110mハードルととても相性が良いのではないでしょうか。
ハードル間を3歩で進むリズム。
踏み切り位置。
抜き脚。
上体の角度。
着地から次の一歩。
それぞれをごくわずかに改善し、その小さな差を10台分積み重ねる。
2020年の13秒61から2025年の12秒92までの推移を見ると、村竹選手の競技人生そのものが、そうした「小さな改善の積み重ね」に見えてきます。
そしてもう一つ注目したいのが、パリ五輪と東京世界陸上の「同じ5位」です。
2024年は、日本選手として初めて五輪決勝に進出した5位。
2025年は、12秒92を持って本気でメダルを狙い、それでも届かなかった5位。
数字は同じでも、意味はまったく違います。
以前なら夢だった決勝が、今では悔しさを感じる舞台になった。
これは成長したからこそ生まれる苦しさなのでしょう。
親の立場で想像すると、うれしいような、少し胸が痛むような気持ちになります。
子どもが高いところへ進めば進むほど、本人の目標も高くなり、今まで喜べた結果では満足できなくなる。
それでも家族にできることは、もしかしたらパリのときと変わらないのかもしれません。
記録保持者でも、五輪ファイナリストでも、「今日はちょっと顔が怖いよ」と言ってあげられること。
世界中がタイムや順位を見る中で、一人の息子として見ること。
村竹選手の母親のエピソードから、私はそんな家族の役割を感じました。
2026年、村竹選手は24歳です。
すでに12秒92の日本記録保持者ですが、本人が目指している世界のメダルにはまだ届いていません。
だからこそ競技人生は、むしろこれからが面白いのでしょう。
日本人初の五輪ファイナリスト。
日本人初の12秒台。
パリ五輪5位。
東京世界陸上5位。
ここまで「初めて」を切り開いてきた選手が、次は表彰台という新しいハードルをどう越えるのか。
そしてその大舞台で、またあの楽しそうな表情を見せてくれるのか。
親心で見守る一人のファンとして、私も楽しみにしています。
まとめ|村竹ラシッドの父はトーゴ人、母は日本人
村竹ラシッド選手の両親は、トーゴ人の父親と日本人の母親です。
父親は跳躍競技の経験がある人物とスポーツ紙などで報じられています。
一方、父親の氏名や職業、具体的な競技成績、代表歴などは確認できる公表資料が限られているため、「元トーゴ代表」などと断定するのは避けたほうがよいでしょう。
母親についても名前や職業は公表されていませんが、2024年パリ五輪では現地へ応援に訪れています。
決勝前、かつてない緊張に包まれていた村竹選手へLINEを送り、表情が怖くなっていることを指摘しながら、もっと楽しんで笑顔で臨むよう声をかけました。
村竹選手本人も、その言葉などによって前向きな気持ちへ切り替えられたと東京都のインタビューで明かしています。
そのパリ五輪では、男子110mハードルで日本選手初の決勝進出を果たし、13秒21で5位。
2025年8月16日にはアスリートナイトゲームズin福井で12秒92を記録し、日本記録を0秒12更新するとともに、日本選手として初めて12秒台へ入りました。
2025年東京世界陸上でも13秒18で5位。
さらに2026年5月10日の木南道孝記念では、向かい風0.2mの条件で13秒05を記録して優勝しています。
父親のトーゴというルーツも、母親の精神的な支えも、村竹選手を知るうえで興味深い背景です。
ただ、それだけで12秒92を説明することはできません。
2020年の13秒61から少しずつ記録を縮め、ケガや大舞台での失格も経験しながら、技術を磨き続けてきた本人の積み重ねこそが競技人生の中心です。
私がご両親について調べて最も印象に残ったのも、華やかな家族プロフィールではありませんでした。
世界の決勝を前にした息子の「表情」を見ていた母親です。
日本記録保持者になっても、世界大会のメダル候補になっても、ご両親にとってはきっと大切な息子であることに変わりはないのでしょう。
次の大舞台でスタートラインに立つ村竹ラシッド選手が、どんなタイムを刻むのか。
そしてどんな表情で世界へ挑むのか。
記録と一緒に、その「自分らしく楽しむ姿」にも注目して応援したいですね。
よくある質問
村竹ラシッドの父親はどこの国の人?
村竹ラシッド選手の父親はトーゴ人です。
スポーツ紙では跳躍競技の経験がある人物と紹介されています。ただし氏名や具体的な競技成績、代表歴などは公表された確かな資料が限られるため、詳細については断定しないほうがよいでしょう。
村竹ラシッドの母親はどんな人?
母親は日本人です。名前や職業などは公表されていません。
2024年パリ五輪には現地まで応援に訪れ、決勝前に緊張していた村竹選手へLINEを送り、「もっと楽しんで」という趣旨の言葉で気持ちを前向きにするきっかけを作りました。
村竹ラシッドはどこ出身?
村竹ラシッド選手は2002年2月6日生まれ、千葉県松戸市出身です。
松戸市立第一中学校、千葉県立松戸国際高校、順天堂大学を経て、現在はJALに所属。男子110mハードルで12秒92の日本記録を持っています。
筆者:春野滋(エンタメ&スポーツ愛好家ライター)

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