車いすテニスのプロ・プレイヤーとして、大活躍している小田凱人(おだ・ときと)さん、車いすを使用していますが、自力で立ったり歩いたりは、出来るんでしょうか?
それとも自力歩行は出来ないんでしょうか?
車いすテニスを始めたきっかけは、何かの病気だったのでしょうか?それともケガ?
いったいどうやって、車いすテニスを選んでやり始めたのでしょうか?
いろいろと気になったので、調べてみました。
⇒2023年4月開催の、DunlopKobeOpen2023(ダンロップ神戸オープン)の情報はこちら⇒⇒
小田凱人のプロフィール
名前:小田 凱人 (おだ ときと)
誕生日:2006年5月8日
出身地:愛知県一宮市
居住地:千葉県
身長:175cm 現在も成長中
利き腕:左
特技:体幹を活かしたチェアワーク、リーチの長い腕から繰り出す強打
強み:鋼のメンタル ポジティブさと柔軟性、状況に応じた切り替えの早さ
現在の目標:パリでのパラリンピックで金メダル!
所属:東海理化
2021年1月~2月に、フランスで開催された18歳以下の世界ジュニアマスターズ大会で、競技歴わずか3年で優勝した、という輝かしい戦績の持ち主です。
全仏オープン2023で優勝し、史上最年少のグランドスラム覇者になりました。そして同時に、17歳1ヶ月という、史上最年少で、世界ランキング1位に耀いています!!
小田凱人は歩ける?
短い距離なら歩けますが、長い距離は車椅子を利用します、と、インタビューで答えていました。
短い距離がどのくらいで、長い距離がどのくらいかは、明確には仰っていませんが、例えば、ダイニングから冷蔵庫にアイスを取りに行く程度なら歩けるけど、家から近所のコンビニに飲み物を買いに行くとなると、車椅子で行く、とか、そういう感じではないかと思います。(想像ですが)
屋内や練習場などで、ちょっと移動する時は、杖を使ってゆっくり歩きます。
でも、左足でけんけんとかはもちろん、左足に体重をかけたりとかも、多分出来ません。
サッカー少年だったのに、サッカーは、出来ません。
股関節に人工関節を装着しています。
9歳だった小田さんの体に合わせて、鋳型からオーダーメイドで作られた人工股関節が、小さな体にはめ込まれました。
自前の左股関節を捨てて、金属製の人工関節を体内に固定するため、左の腹直筋を太ももに移植する、という大手術を受けたそうです。
左腹部の筋肉を太ももに移植した影響で、左半身を支える十分な筋力が足りず、体を思うように動かせない状態だったそうです。
左足は自由に動かせないのですが、全く動かさないでいると、正常に成長しません。
バランスよく成長させるために、左足もある程度は動かして、運動させる必要があります。
そのためにも、杖を使ってでも、左足も少しは運動させるように心がけているそうです。
左右のバランスが取れないことも、股関節(人工関節)の可動域の構造上うまく身体を倒すことができないことも、筋力や体幹のトレーニングでカバーし、鍛錬に鍛錬を重ね、壁にぶち当たり新たな課題に直面しても「考えればやりようはある」と前を向き続けているのです。
小田凱人が車いすテニスを始めたきっかけは病気?ケガ?
小田さんが車いすテニスを始めたきっかけは病気です。
「骨肉腫」という、骨にできる悪性腫瘍(癌)の中で、最も有名な病気にかかってしまったのです。
最初の症状として最も多いのは、痛みや腫れだそうです。
ただし、痛みも腫れも、成長時の成長痛やスポーツ障害、変形性疾患でも生じますので、症状だけで自己診断はできないそうです。
小田さんは小3になったばかりの2015年5月、左脚に違和感を感じたそうです。
「靴下も履けないほどの痛み」だったらしいのですが、どうしても出たかったという小学校の運動会に参加しました。
運動会の後、地元の医師に紹介されて受診した大学病院で「悪性の骨肉腫」と告げられたそうです。
「今日、このまま入院してください」と医師に言われ、絶句したそうです。
小学3年生です。
それまでサッカー(おそらくスポーツ少年団ではないかと思います。)をやっていた小田さんは、熱心に練習に通っていたそうです。
運動会にも、どうしても出たかったと言っていたとおり、身体を動かすことが大好きで、スポーツが得意な、活発な少年だったのではないかと思います。
小学3年生と言えば、得意な技もいくつか習得して、向いているポジションも決まりかけ、将来はプロになりたいとか、一番、夢を抱く時期ではないかと思います。
小田さんももしかしたら、Jリーグに入りたいとか、誰それのようになりたいとか、そういう希望をいだいていたかも知れません。
どれだけの、大きな絶望と向き合って、それを乗り越えてきた人なんだろう、と思います。
骨肉腫の小田凱人を言葉で支えたのは?
9歳の小田さんが股関節置換手術を受けた頃、同じ名大病院小児科で幼い患者を支えていたのは、この人!?
小田凱人に車いすテニスを教えた『運命の人』は、あの人!
小田さんは、上述の大手術を受けた後、リハビリを始めました。
左腹部の筋肉は、ごっそりと取られ、太ももに移植され、思うように動かない人工関節を固定するために使われています。
左側の筋肉が無く、身体の左側を支えることができません。
左右のバランスが取れず、姿勢も保てず、上手に歩くことも出来ません。
術後は体中が痛く、ずっと泣いていたといいます。
痛いのもそうだけど、もう、サッカーは出来ないこと、もとには戻れないこと。
走れない、蹴れない、今までがんばってきたほとんどの事をあきらめないといけないこと。
将来に対して絶望しか無く、何の希望も持てなかったこと。
手術箇所は激しく痛み、辛い日々が続いたのではないかと思います。
絶望のどん底に居た時に、担当医師から、「退院したら、パラスポーツに挑戦してはどうか」と提案され、その一言で、『希望が持てた』んだそうです。
病床でむさぼるようにユーチューブの画面を開いて、検索しまくりました。
パラスポーツ、車いすマラソン、車いすバスケットボール、車いすテニス、車いすラグビー、車いすなんちゃら・・・。
そして、『一番びびっときた』『車いすテニス』を始めると決めたそうです。
この時、入院中に食いつくように見ていたのが、国枝慎吾さん(ユニクロ)が金メダルを獲得した、ロンドンパラリンピックの車いすテニス男子シングルス決勝の動画なんだそうです。
それからは、車いすテニスがやりたい一心で、つらい治療も抗がん剤の投与にも耐え、副作用も乗り切り、
車いすテニスがやりたい一心で、リハビリもがんばって退院までこぎつけたそうです。
そして、小田さんは、退院後すぐに競技をスタートしたそうです。
小田凱人の英語力と勉強方法は?英語ぺらぺらのスピーチの秘密は?
小田凱人(おだ ときと)の情報まとめ
競技をスタートした、とは言っても、けして順風満帆だったわけでは無かったそうです。
左側の筋肉が無い、ということは、左半身を支える十分な筋力が無いのです。
股関節(人工関節)の可動域も、『体を倒せる角度は60度くらい』で、ドロップショットにうまく対応できません。
それでも、『考えれば、やりようはある』と、鍛錬を重ね、構えや体勢を研究し、身体の動かし方を考え、目の前に現れる新たな課題を解決してきたのです。
小田さんは、「テニスを始めたころから憧れたプロ選手に、15歳でなれたことを嬉しく思う。病気の子どもたちのヒーロー的な存在になれるよう頑張りたい」と、語っていたそうです。
プロのテニスプレイヤーとして競技に集中するため、高校も、通信制の高校を選んで進学した小田さんは、これからもっともっと成長し、経験を積み、戦績を伸ばしていくのでしょう。
私も、ずっと応援していきたいと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
小田凱人さんの成長と奮闘をまとめた記事一覧!感動のストーリーはこちら⇒
小田凱人の骨肉腫が肺転移 (肺がん再発)していた問題については⇒
コメント
[…] […]
[…] […]
[…] […]
[…] […]
[…] […]
[…] 小田凱人は歩ける?歩けない?始めたきっかけは病気? […]